monotool-モノ探しサイト-

「物の怪」の歴史

mononoke-01

物の怪(もののけ)とは

物の怪(もののけ)は、日本の古典や民間信仰によく現れる、人間に憑いて苦しめたり、病気にさせたり、死に至らせたりするといわれる怨霊、死霊、生霊など霊のことを指します。

「物の怪」の中に含まれる「物」の意味は、人間以外の存在、もしくは、人間への対義としての「物」のことです。広義には、すべての無物無生物や超自然的な存在をそのように表現します。そこから転じて、平安時代の『延喜式』文脈では、災いや祟りを引き起こす悪神を「もの」と表し、人間やその周辺の生物に幸福安泰や恵みをもたらす善神の反対の概念として描かれています。

「物の怪」の登場

「物の怪」の話は、平安時代の文献から多く見られるようになります。代表例が、『源氏物語』の第9帖「葵」で、葵の上に取り憑いた六条御息所の生霊でしょう。ほかにも、『大鏡』や『増鏡』などの古典でも「物の怪」の記述は散見されます。

日本の文献上における「物の怪」の初見は、さらにさかのぼって、『日本後紀』とされています。ここでは、現代の体調不良・病気のことを示しているようです。当時の古語では「もの」は鬼、精霊、荒魂(あらみたま)など、もしくは明確な実体を伴わない感覚的な存在のことを指しており、また、他の文献で疫病のことが「時気(ときのけ)」と書かれたりしていることから、「物の怪」とは「もの」によって生じる「け」、すなわち、人外の要因で引き起こされる身体への災禍である「病気」のことを指していたものと見られます。『枕草子』にも、病気の種類として「胸のけ」「脚のけ」「もののけ」の名が挙げられています。

病が「物の怪」とされた背景

医療知識が未発達だった時代には、「物の怪」による人間の病気に対し、僧侶や修験者が加持祈祷を行うことがよく行われていました。病気の原因とされる「物の怪」を、「よりまし」と呼ばれる身代わりの別の者に一時的に乗り移らせることで、「物の怪」を調伏し、病気を平癒されるという概念が広まっていたようです。この様子は、『枕草子』や『紫式部日記』などの平安時代の文献に詳しく述べられています。また『続日本後紀』によれば、皇居内の「物の怪」に対し、60人もの僧侶が経を唱えたということです。

「物の怪」思想の変遷

平安初期の頃より日本では、さまざまな社会不安や病気を怨霊の祟りとする考えが生まれていました。この発想が、「物の怪」の思想の下地としてあったものと考えられています。

延暦年間には相次ぐ皇族の病死や疫病の流行が、宮廷内暗殺事件に関わったとして無実を訴えながら憤死した早良親王の祟りといわれました。また、文献上では『日本現報善悪霊異記』に長屋王の怨念が多くの人々の死を招いたという説話があり、『続日本紀』に藤原広嗣の怨霊の記述があります。しかし当初は、まだ怨霊思想は有力ではなく、嵯峨天皇も遺戒で「物の怪(災禍一般)」と怨霊との関連を強く否定していました。

その後、徐々に「物の怪」と怨霊とを結びつける思想が盛り上がってきます。『続日本後紀』では撰者・春澄善縄の陰陽道の知識が反映され、「物の怪」のことが強く取り上げられました。承和年間には貴族社会がこの陰陽道の強い影響を受け、陰陽道の流行によって人々の間に怨霊の観念が植えつけられました。そのような世界観が醸成された中で、藤原氏の讒言によって流罪となった菅原道真の死亡後、皇族や貴族の死が相次ぎ、疫病も流行すると、一連の災禍が道真の祟りとして恐れられました。これを機に、「物の怪」が怨霊の祟りによって起こるものとする考えが、より一層、人々の間に浸透するようになりました。

その後、藤原摂関家の時代になると、当時の貴族たちが栄華を誇った反面、繊細な性格を持ち合わせていたため、時代の敗者たちの怨みや復讐に対する恐れ、将来への危惧などから、「物の怪」に一層の恐れが抱かれるようになりました。閉鎖的な宮廷社会を送っていた当時の貴族たちの精神も、「物の怪」への恐れを助長することになりました。こうしたことで「物の怪」自体が怨霊と考えられ、やがて疫病に加えて個人の死、病気、苦痛などのすべてが「物の怪」によるものと見なされ、その病気自体も「物の怪」と呼ばれるようになったと考えられています。さらに、「もの」に対する恐怖の観念によって、病原体ともいえる生霊や死霊自体が「物の怪」と呼ばれるようになっていき、今日の「人外の恐怖の対象=物の怪」の図式ができあがってきたといえます。


公開日:

monotool shopstage tennoz mono-gatari area-news payo search-shop bridgebridge nonoichi allinone-gel bi-cafe goods info